現代日本における宗教

ネットを一時解約して気付いた事がある。

昔、誰かが言った
『テレビこそ宗教だ』と
全くその通りだ
テレビから流れる音と映像…つまりは情報を
簡単に信じてはいないだろうか?
その情報を得意気に友人に広めてないだろうか?
自分自身が見聞しなくても、ある程度知る事が出来る。
ましてやテレビを見てるだけで、
何かしている気がしないだろうか?
それこそが現実感の喪失に繋がってないだろうか?

それが今、ネットの世界に起こっていた。
今更だが気付いたのだ。
その世界の扉を開けば何時だって欲しい情報が手に入る。
更にテレビより優れている動画配信。
探せばみたい番組はゴマンと転がっている。
探すと言っても掛かる労力は鉛筆を走らせるより僅かだ。
ゲームも出来る。
見えない友人もいくらでも作れる。
なんでも与えてくれる存在があると
人は確実に“依存”する。
例えそこに何かしらのリスクが存在しても気付かないだろう。
今やノンポリ無宗教だと言い張る意味はない。
自分達はネット信者だと言うべきだ。
例えいっぱしに仕事をしているとしてもそれは
“なにかしてないと駄目”になるからだ。
俺もだ。
特に突出して趣味の無い人間は
まず本気で後悔した事がない。
それは本気で自分がぶつかって傷つくのが恐いからなのかは解らない。
とにかく“知らない恐怖”より“知ってる不安”に浸かるのだ。

そういう奴等は大抵ネット信者になる。
いやほぼなる!
試しにネット契約を切ってみろ!?
その時の喪失感は凄いぞ?
オンラインゲームも出来ない。
知りたい事も調べられない。
見たい番組も見れない。
見知らぬ人と談話も出来ない。


その余りある利便性の欠如がもたらす喪失感。
まずその日はやる気もなにもやることもままならないだろう。
それほどの依存性…もはや中毒だ。

昔の人が竹槍担いで『南無阿弥佗佛(?)』て言って死地に赴く宗教から
何にも変わっていない。

“人間は依存する”

それを救いとするから